« 月曜日と思わないこと!(東国原知事) | ホーム | 人間と宗教と哲学 »
2007年5月28日
死を選ぶのはあまりにも簡単すぎるから。
松岡農相が自殺した。
残念なことに、私も大切な人をこうした形で何人も亡くしているが、松岡農相もテレビで見ていただけに残念だ。
人間というものは、精神がダメになると、元も子も無くなる。
精神は、心は、世の中を見る上でのメガネのようなものだから、弱っているとあらゆることがフィルターに通されてマイナスになってしまう。本質を見ることが出来ずに、自分のなかで悪い方向へと一人歩きしてしまう。
他の人が止めたところで、そう簡単にはそのフィルターを取り除くことは出来ない。
そして楽になりたいと思う。死が善だと思い出す。
自分で命を絶つことほど、残された者がやるせない気持ちになることはない。
死というものはあまりにも簡単すぎるのだ。
生きるのは大変だし、苦しいし、すごく難しい。
でも死んだら終わりなんだ。何もかも終わりなんだ。終わった後で騒いでも何もなら無い。屍に話しかけても返事は無い。もう、すべては終わったんだ。
このことが世の中の前提になっていることを忘れていはいけない。
最近は「死」というものに対して疎くなっている時代だ。戦争もあまり知らずに、身内での殺人が毎日ニュースになって、死というものをあまりにもうっすらと理解してしまう時代だ。
だから「死」というものがあまりにも「近くて簡単なこと」だという本当ことを知らないといけない。
そしてそんな近くて簡単なことと隣り合わせにいる「生」が「どんなに貴重で尊いか」を感じなければいけない。
ただ、人間は残念ながら頭の悪い動物で、なかなか「死」といものを理解できない。
ニュースでの殺人ニュースも全然驚かなくなっている。これは悪く形を変えて「死」というものを理解した状態といえる。
だから、自分の大切な人の「死」に直面した瞬間に、その「死」の意味がようやく分かりだすのだ。それでは遅いのにも関わらず。
だがこれはしょうがないことだ。だから、そのひとつの貴重な死に対して、私たちはたくさんのことを学ぶ必要がある。これは死んだ人に対しての礼儀だと思う。せっかく「死を学ぶ」機会、そして「生を学ぶ」機会を与えてくれたのだからだ。
簡単なほうにいくのは誰でも出来る。
だから生きようよ。
ちょっと難しいかもしれないが、どんな方法でもいいじゃない。
別にがんばらなくていい。とにかく楽しめ。じゃないと損だ。
コメントする