自分観察日記の最近のブログ記事

2022年10月21日

[2486] 言葉を磨くシミュレーション

こんばんは、マスカゼです。

2005年から2012年ごろにかけて私は定期的に文章を書いてきた。

それ以前の、文字や口頭でも、アウトプットする事がなかった生活が一変し、

21歳ごろから28歳ごろまで約8年間、私は文章を書き続けた。

そしてまた一変、この2022年現在の直近の10年間はそのカウントに当たらないほど文章しかかいていない。

ここ最近、言葉の重要性に気づくことが多くなってきた。

言葉は力だし、言葉こそが人間だとも思えてきた。

仕事の内容が変わり、大きくそのことに気づかされた自分がいる。

言葉が大事だ。言葉がないと伝わらない。

伝わり方が違う。

言葉が人生の厚みを増し、意味を与える。

特に対話が必要な場合における言葉のやり取りは、

予め用意されていないその場で引き出すことば、

伝えたいニュアンスとは違った言葉になってしまう場合がある。

より慣れていない世界では。

それだけ、伝えたいことが簡単ではないということだと思う。

そんなことを漠然と思いながら、ヒカルの書籍を手に取った。

以前から知っているYouTuberだが、

山口県の送金問題の田口氏のホワイトナイトとして、

今までのYouTuberとは別角度の注目を集めた。

そこからちょっと違った人間だと感じて度々動画を見ていた。

過去動画は祭りの出店の当たりくじが出るまで買い続ける企画など、

誰もが想像はしてもお金がかかってするはずもない。

やろうとしようともしないことをやる。それがヒカルの魅力なんだと思う。

そして書籍発売。

半分ぐらいしか読み進めていないが、

あんなにチャラチャラしてそうなのに、ものすごく言葉を大切にしていた。

そこが今の自分に刺さってきた。

ただ単に喋ればいいわけじゃない。

伝わり方が刺さり方が違う。

そんなことを知っている彼は、努力を続けた。

今の生きている意味合いをもう少し深めていこう。

もう少し、動物的な幸せから、人間的な幸せを知って行きたい。

だから文章を書いていこう。

次は自分に対する動機づけ。

2022年9月22日

[2485] 自然界での生きる力について

こんばんは。マスカゼです。

自然界での生きる力について。

世の中にはいろいろな人がいて、

まだまだ自分の都合ばかり押し付けるものも存在する。

ある意味野生的な、原型的な、野蛮な人物だ。

一般的には、人は豊かになり、平和になり、平和ボケになってきて、

やがて免疫力が薄れてきている。

いつまでもベビーベッドに置かれた赤ん坊と同様、

過保護で外的な危険がない環境に慣れてしまうとそれが当たり前になる。

すると野蛮な人物に出会った時の対処法を身につけない状態で立ち向かうと怪我をする。

大抵のところ、野蛮な人物というのは野蛮な人たちに育まれてきているから、

丸腰では立ち向かいようがない。

しかし、いま生きるためにはその技術が必要となる。

技術か、本能か。

この場合はこれが同意語かもしれない。

自分の反応を研ぎ澄ませ、

生きるために戦うのだ。

野蛮な人物が相手なら、こちらも野蛮に戦わなくては殺されるだけ。

いつまでも、赤ん坊でいる必要はない。

世の中、人々の感覚というのはいつまでも相対的だ。

昔は殺し合っていたが、

今も殺し合っている。

命は奪わないが、暴力は振るわないが、

しっかり勝っていかないと負ける。

物理的には死なないか、生物的には死なないが、

人間的には死ぬ。

それが楽しみ、生きがいになる。

それが最後にAIでは出来ない人間らしい生き方であり、

人間しかできない生き方なのだ。

AIでもできる事ばかりしているから、

人間が病み、腐る。

綺麗事ではなく、人間は動物。

戦う事が、イコール生きる事なのだ。

2022年5月20日

[2484] 心と言葉を一致させる作業

寡黙なことをよしとしてきたが最近そうでもなくなってきた。

今まで言葉にしてこなかった人間が言葉を使い始めると、

言葉の意味が絶妙に違ってきたり、

意味合いを間違えて使っていることがあるような気がする。

しかし何よりも問題なのが、

喋る内容が出てこないということである。

これについて考えることがあった。

何事も、表現するのに時間が掛かっている性質がある。

メールを一つ打つのにも時間がかかるタチである。

一体なにをしているのだ!?

あっているか、誤植はないか、

そんなことの確認はもちろんしてるんだろうが、

たぶん、カッコつけてんじゃないか。

そう気づいたのである。

自分からアウトプットする言葉を作ってきたのである。

創作するには良いことだと思う。

ただそれ、本当の自分の言葉なのかって言われたら、

だんだん違ってきているんだろうと思う。

それは文書作っているときと、会話している時の自分が違うからだ。

それは性質的なことかもしれない。

喋りができる人と、そうでない人。

感じたことのアウトプットは素直に早めにしたほうがいいと言われたことがあった。

自分で感じたことを、湾曲したり、加工することせずに、素直にアウトプットする。

これは実はいままで出来てなかったことなのかもしれない。

つまりは全てが逆で動いていた。

つまり、綺麗事しか言わなかった人間だったのである。

もし、違和感をもった、疑問に思った、違うと思った、

そのような感覚的なことがあればアウトプットしたい。

しかし、その場その場の変なフィルターを掛けてたのは自分ではないかと最近感じ始めた。

自分は、本当は嫌だった。

自分の感じていることはものすごく幼稚なことである気がしたからだ。

だから、一度、踏みとどまり、加工して発していたきらいがあった。

これを続けると、自分の感覚がにぶくなってくるのがわかってきた。


最近、立場も役割も変わることが多くなった。

綺麗事は必要ないのである。

月別 アーカイブ

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち自分観察日記カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは常滑再発見です。

次のカテゴリは写真です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。