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2026年8月26日
[2493] パラダイムシフト No.8 〜AI時代のラッダイト運動〜
「歴史は繰り返すのか」
日経の「やさしい経済学」を読んでいると、ラッダイト運動という文字が目に留まった。
明治学院大学の教授による「AIは人の仕事を奪うのか」という連載記事である。
冒頭はリニア中央新幹線の話から始まる。
鉄道が開通するまで、東海道では飛脚が物流と通信を担い、宿場町には人や馬が集まっていた。
しかしその光景は一変した。
労働も同様に、AIに奪われてしまうのか、という問いである。
前回の記事「AIのラストワンマイル」を書いたのが8月23日。
この記事が日経に載ったのは、その翌日の8月24日である。
案の定というか、世の中の関心は同じところに向かっているのだと思う。
記事の骨子はこうだ。
MITのアセモグル教授らによれば、仕事は細かなタスクの集まりであり、AIによる代替が進むと労働分配率は下がりうる。
オートメーションには、生産性を高める効果と、人間の仕事を機械に置き換える置換効果がある。
生成AIは知的業務の一部も代替し始めており、その利益はAIを所有する企業や資本側に集中する可能性がある。
一方で、人間を補完する方向に使えば、新しい仕事を生み出せるかもしれない。
つまりは、代替か補完か、その選択が労働分配率を左右するというのである。
では、そもそもラッダイト運動とは何だったのか。
1811年ごろの英国で、職人たちが織機を打ち壊した運動である。
かれこれ200年以上前から、機械は人間の仕事を奪うのかという論争は続いていることになる。
そして歴史の教科書は、いつも同じ形で締める。
新技術は古い仕事を減らしたが、新しい仕事も生み出してきた、と。
ここで引っかかることがある。
新しい仕事が生まれたのは事実だとして、当の飛脚は救われたのだろうか。
宿場町の馬子は、鉄道会社に転職できたのだろうか。
おそらくできていない。
いや、正確には、一部はできたかもしれないが、大半は別の職に流れて消えていったのだろう。
新しい仕事に就いたのは、次の世代である。
つまり「社会全体は大丈夫」と「あなたは大丈夫」は、全く別の話なのである。
歴史を振り返って安心できるのは、社会の視点で見ているからであって、
個人の視点で見れば、置き換えられた本人は置き換えられたままなのだ。
ここに私のこれまでの法則を当てはめてみる。
16年前のフードデリバリー予測で分かったことは、機能の予測は当たるが、誰が実現するかは当たらないということだった。
今回も同じ構造だと思う。
AIで何ができるようになるかは、もう誰でも分かる。
分からないのは、誰が利益を取り、誰が置き換えられるかである。
さて、ここから推測を進めてみたい。
AIは知的コストを限りなくゼロにしていく。
そうすると、企業はまず補完ではなく代替から入る。
コスト削減は数字で説明しやすく、新しい仕事の創出は説明しにくいからである。
そうなると、生産性向上の利益は資本側に集まり、労働分配率は下がっていく。
そうなると、働いて稼ぐという前提そのものが揺らいでくる。
もはや労働は生活の手段ではなく、趣味やスポーツになるのかもしれない。
昔は好きで走る人などいなかったのに、今はマラソンブームである。
同じように、好きで働く人だけが働く時代が来るのかもしれない。
と、妄想が膨らむが、話はおいといて。
では、今の私たちは何をすべきなのか。
記事は、代替として使うか補完として使うか、その選択が分配を左右すると締めている。
ただ、この選択の主語が気になる。
企業が選んでくれるのを待っていてはいけないと思う。
企業の選択を待つ人は、選択される側に回る。
つまり、代替される側である。
自分でAIを使い倒す人だけが、補完の側に立てる。
これは間違いない。
そしてこれは、前回書いたラストワンマイルの話につながってくる。
AIにできないのは、説明責任と賠償責任であった。
補完の側に立つということは、AIの出力に責任を取る側に回るということだ。
AIを教育し、管理し、その結果に責任を負う。
織機を壊す側ではなく、織機を使いこなして責任を負う側。
200年前から選択肢の構造は変わっていない、というのが今の捉え方かなと思うのでここに記しておきます。
また、10年後に見返したら全然違う世の中になっているのでしょう。
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