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2009年3月 2日

「おくりびと」見てきました

ミーハーなので、話題の「おくりびと」を見てきた。

ゆっくりとした話の流れのなかで、

生きるもの達から隔てられる段階においての儀式により、

普段の生活のなかでの価値観を、

問い立たされる作品だったと思う。

なので、この作品は、

見るものによって、

大きく評価が異なるものなんだろう。

ただ、一ついえることは、

これを、本質的に理解できるためには、

一番身近の存在で、

人を失う体験を、

実際身において、

経験している必要がどうしてもあると思う。

だって、死について考えることは出来たとしても、

それを本当の意味での理解ではないんだろうから。

だから、僕が理解できたのは、

半分ぐらいと思っている。

親も死んでいない。

子も死んでいない。もちろん、まだいない。

そんな中での親子の感覚は、

まだわからない。

それが正直なところだった。

ただ、全体の話の流れを通して、

死、ということに対して、

繊細な感覚で捉えていたのは、

確かにあると思うが、

もうちょっと残酷に、

実際の死というものの、

恐ろしさというか、

儚さというか、

あっけなさというか、

そんなものを、

無残に表現してほしかったのもある。

死、というのは、

あんなにきれいじゃないやろ。

とどうしても思ってしまう。

それを美化って、言っていいのかはわからない。

自分がその仕事をしていないから。

でも、あのような、

死、について、

大きな門出として、

また新たな旅立ちとして、

捉えた、

なんというか、

これを宗教的というのか知らないが、

そんな感覚、価値観、

意味深いものがあったと思う。

そして、その儀式が、

以前は、

家族の手で行われたということは、

忘れてはならない。

いつからか、

人間は、

死、を美化してきた。

ま、それは、

宗教というものの考え方で言っているのではなく、

本当に残酷なところを隠し、

死を、美しく、した。

それは、

どんな心情からなのか。

私たち、残されたものが、

安心して旅立てるためなのだろうか。

それは、そうなんだろうけど、

ある程度、死の残酷さも、

もうちょっと、必要だろうと、そう思ったのだ。

死は、否定できるものではないが、

肯定するようなものでもない。

もちろん、それが、納得のいくものだったらいいのだが、

時には、そんなことはない、死もあるのだから。

ただ、どんな死であろうとも、

死んでからの処置というのは、

あのように、

美しく、

明示的に美化して、

送ってやるのが、

残された人のためなんだろう。

あれは、死んだ人のためにやっているわけではない。

残されたものの、

支えだ。

死、というものに向き合う上で、

欠かしてはいけないのが、

自分も死ぬということなのだから。

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