情報量の差について

最近は情報がたくさんあって、

ということをよく言われるんだけど、

ここにきてそれは違うなって思ってきた。

もともと、人間が一日に得られる情報量は限られている。

一日に情報を得るために割けられる時間は限られている。

そう考えると、得られる情報量の差という意味ではあんまり変わらない。

以前から新聞や雑誌はあるし、その情報量はハンパない。

リアルタイム性がないかといえばそうでもなくて、

新聞は考えてみるとかなりスピーディーだ。

前日の出来事は翌日の朝に膨大な文字情報として手に入るわけだ。

それも、新聞各社がシビアに御幣ないように内容をたたいている。

一方、今はニュースといっても携帯で入ってきたり、

情報量としては逆にすくなかったりする。文字数が少ないので。

動画で一目瞭然の場合もあるけど、

それはどうだったのかという事実を受け取るためには、言葉が必要。

どうしても、文字や音声で受け取る必要がある。

ブログメディアがかなり発達してきているけど、これは事実の信憑性という点よりも、

コラムとして、ニュースの見解を見るような感じだと思う。

何がいいたいのかというと、

今だからいい情報が得られるといえばそうは限らない。ということ。

スマートフォンひとつあれば何でも情報を入手できる時代だし、

そのスマートフォンで新聞も雑誌もブログメディアも動画も見れる。

これで、なぜかすごいと思ってしまうし、

逆にそれを得られる環境にないと、不安になってしまう。

実際、万能な情報入手ツールを得たとしても受け取り手は自分なので、

その自分がどれだけその情報に対して反応できるかが大事。

そう考えると、情報だけに右往左往されている今こそ、

自分が考える余地が少なくなっているように思う。

もちろん、以前よりも反対意見と賛成意見の両方を見たり出来たり、

そういう意味では選択肢としては増えている。

でもその選択肢を作るのは苦手になってくるんじゃないかなって思う。

それは新聞のような事実だけを伝えるような形ではなく、

見解が出されたメディアが多いという点で、

受け取り手に考える余地が少なくなっている気がするからだ。

悪くたとえると、メディアに洗脳されやすくなってきたという感じ。

メディアに振り回されやすくなってきたという感じ。

ツールは進化しても、人間はそこまで早く進化しないから、

どんどん人間がすごくなっていくというのは勘違いになるんだろうな。

実際、人間は、ものすごく動物的で、

例えばどんなにいいことでも自分や嫌になると続かなかったりする。

どんなに進化しても、

本能的なところをより意識的にしていきたいところかなと思う。